ププルでは、コロナの時期を経て前社長の関秀樹から関聖子に世代交代をしました。
関新社長はププルの現場に大きな変化を起こして躍動感のある取り組みを進めています。
今回は新社長就任の経緯について対談記事をお届けします。
インタビュアー:新社長になられてから人の入れ替わりがあったとのことですが、何か背景にあったのか差し支えない範囲で教えていただけますでしょうか。
社長:弊社はコロナの影響で業績が伸びたので、コロナが終わった後に業績を維持していくことができるかが課題でした。
三十六年続けてきた今のププルが今後十年、二十年と継続できる会社にするためにはどうしたら良いかを考えていました。
経営も多少勉強した思いもあったので、世代交代を経て大胆な変革を図るべきだと考えました。
インタビュアー:今の社員構成はどのようになっているのでしょうか。
社長:平均年齢は30歳くらいで、一番上が私と同じくらいです。
新卒で入社し、約10年勤務している社員も多く、長期的なキャリアを築ける会社だと自負しています。
しかし、反面、ある意味で少し甘い職場環境が存在していました。
実際、私自身も入社当初は、こんなにゆるい会社があることに驚いたほどです。
インタビュアー:なぜゆるい会社と感じられたのでしょうか。
社長:ルールがないからです。自由が過剰にあることで組織として崩れていきます。
そのため、組織が機能不全に陥らないように適切なルールを設け、管理を強化する必要があると考えています。
木村さんが入社してから、新しいシステムを導入し、面談を行うなど、以前にはなかった取り組みを実施しています。
また、以前はなかった週1~2回の全体会議や、週2~3回の営業会議も新たに取り入れています。
インタビュアー:会議がそれほど少ないのにどのようにして意思疎通を取っていたのでしょうか。
社長:以前は社員が自分の業務に集中し、他人に任せる体制があり、与えられた仕事をこなすだけで会社が運営されていました。
クライアントからの問い合わせに基づいて仕事が進められる体制で、ただ来た案件を受けるだけの状態でした。
このため、社員間に危機感やチームワークの意識が欠如していたと感じています。
私が社長に就任してから業務が厳しくなり、体制に馴染めない社員が退職するケースもありました。
新卒で入社した社員や長く勤めていた社員も含め、約5、6人が退職したと思います。
インタビュアー:関社長は20代の頃からどのようなキャリアを歩まれてきたのでしょうか?社員の方はご存じなのでしょうか?
社長:私は新卒でププルに入社し、その後自分の事業を立ち上げました。
ププルでの美容部門の設立までの期間は8年でした。その後の出産を経て、2人の子供を育てながらの10年間は大忙しでした。
美容部門では部署が分かれており、社内で美容部署の存在を認知してもらうのにも苦労しました。
しかし、過去半年から1年の間に、私が美容事業で築いてきた実績について理解し、評価してもらえるようになってきました。
インタビュアー:ププルに新卒で入社されたときにはどのような苦労がございましたか?
社長:当時はレンタル業を始めたばかりで、本社が名古屋で5、6名しかいませんでした。
「娘が入ってきたのね」というテンションで、私がいることで意見が言いにくいし、私も出しにくい状況でした。
それで普通に電話をとってお見積もりをして…といった営業メンバーと同じ仕事をしていました。
当時はまだププルの名前もなかったときで、社名変更やブランディングについては現会長とは話をしていました。
ただ、若かったこともあって自分の本領が発揮できていなかったかな?という思いがあります。
インタビュアー:それでも8年間、続けられたのは、ゆくゆくは社長になって欲しいと言われていたのでしょうか?
社長:全然そんなことはありませんでした。私が美容部署を出したのは弟が入ってきたからです。
男なので弟が東京でレンタルを継き、私は美容部署をやると思っていました。
父から相談を受けたのは、私が自分の会社を起ち上げた後でした。自分で会社を持ったときに初めて大変なんだという気持ちと守っていきたい気持ちが生まれました。
私がちょうど二歳くらいのときにマンションの一室からスタートして、三十五年も続く会社を父と母がやってきたのは本当に尊敬です。
インタビュアー:お父様はどのようなきっかけでレンタル業を起業されたのでしょうか。
社長:もともと父はトヨタの関係会社にCADシステムの営業をしていました。
父は良い意味で柔軟な考え方をする人なので、独自のサービスをやった方が良いと考えたのだと思います。
携帯電話の代理店についてのお話をいただいていたので、名古屋でショップをぱっと出しました。
そして、一次代理店だからこそできるサービスはないかというところで電話レンタル業を始めています。
父も母もその時代の流れに合った考え方がありました。私にもその遺伝子が埋め込まれているのではないかなと思います。
インタビュアー:ご家庭の様子から将来、起業家になりたいと思ったことはありましたか?
社長:いいえ、特にそう考えたことはありませんでした。実は、就職当初はやりたくないと感じていました。
自分の仕事に自信を持てず、内心ではかなりの葛藤がありました。携帯電話レンタル業を始めた時も、本心ではやりたい仕事ではありませんでした。
父の会社に入社した時も、深く考えていたわけではありません。名古屋では多くの女性が親の会社で経理や事務を手伝っているのが一般的で、私も特に興味を持っているわけではなく、ただ流れで入社しました。
インタビュアー:美容部門を起ち上げられたのはどういう経緯だったのでしょうか。
社長:「これやりたい!」ということが全然なかったんです。
自分って何ができるだろうとか、自分ってどういう風に今後生きていけるんだろうっていうのはかなり苦しんでいた記憶がありますね。
すごく苦しんだ中で「やっぱり美容系はやりたい」というのがもともとあったので父に相談しました。
それからもう本当に美容一本でずっとやってきました。店舗を作った後に出産があって、戻って来て、それから十一年ですね。
インタビュアー:ププルに戻ろうと考えたきっかけには何かあったのですか?その頃、会社をどう思われていたのかも教えて下さい。
社長:木村さんから入って欲しいと言われたんですよ。
それが二年前くらいのコロナで大変だった頃です。もう単純にこのままだと潰れるなと思いました。
未来のことを考えて仕事をしてなかったので、社長と専務の世代が終わったら世代交代したタイミングで絶対潰れると感じていました。
社長は業績が悪くなる前に新しい改革をおこなって、良いときも悪いときもありながら長く続けていったと思います。
それを社員の子たちが理解しているかといったら理解してないし、当たり前のように仕事をしている様子でした。
時代がこれだけ速く進んでいる中で、常に先のことを考えていないと市場の変化に対応できないし、新しいサービスも出てきてあっという間に取り残されてしまいます。
そのような危機感を漠然と持っていましたね。
インタビュアー:入られてからは会社の問題点を洗い出して解決されていったのですか?
社長:問題点を洗い出すというよりは、あまりにも明白でした。
社員がぬるま湯状態に満足しており、変化に対する恐れがあったのです。
お客様との関係や市場の要求を深く理解し、新しい戦略を策定する必要があると感じていました。
しかし、現場からは変化を望まない声も多く、私の提案には反発もあったと思います。
社長と専務も現場から離れていたため、完全に現場に任せてしまい、危機感を持っていませんでした。
実際、私が「このままでは会社が潰れる」と警告しても、最初は信じてもらえませんでした。
インタビュアー:今は改革がイメージの何割くらい進んでいる感じですか?
社長:現在の進捗状況は約60%です。山本さんの加入により、ブランディングを含めた取り組みが進み、社員の意識統一が進んでいます。
これにより目標とする方向性が明確になり、全体が統合されつつあります。
この流れが続けば、80%程度まで進展すると見込んでいます。ププルの強みを再確認し、その方向性に向かって組織全体を導いていきたいと思っています。
インタビュアー:最後に社長に就任されてこれからの意気込みや社員へのメッセージをお願いします。
社長:私自身は経営者としては本当に未熟ですが、本当に唯一無二のサービスを作り上げていきたいと考えています。
携帯電話レンタル業はまだ周知されていないサービスなのでしっかり伝えていきたいです。
また、ププルとして最後に還元するところは、社員さんの生活なので、その点は引き継いでいきたいと思っています。
いま日本は世界的に見てとても弱くなっています。賃金が本当に低くて、このままだと日本全体が暗く落ち込んでいくことに危機感を感じています。
ププルがグローバル会社として皆のモチベーションをしっかり上げていきたいと思います。
まだ改革し切れていないところの方が多いですが、皆がププルで働いて「良かったよね、いい会社だよね」と思っていただけるような環境を必ず作っていきます。
コメント